見えない翼

小さい時の創造力は万里を超える。
だれもそれを否定することが出来ないほど僕にはそれが大きいことだった。
ものを創り出す力にその見えない翼が如何に貢献していったか、その力は実に計り知れないものであったりするから、馬鹿にならない。
ただの構想だったものが徹底的に形を与えられるには、時の運が必要だがそれを引き寄せられるかどうかはひとえに本人の努力にかかってくるものだ。
川島あいさんの見えない翼という曲を聴いていると、正しい努力の仕方とはどういうことか改めて考えさせられる。
ものを形にするために必要なひと、もの、カネの算段すべて揃えるにはどうしたらいいか、実行力も必要だが、時の熟すのを待つことも大切な要素である。
目に見えるものがこの世のすべてではない。
創り出されたものはその人の専有物でない分、目に見えない形で社会に還元されねばならない。
あなたはそのような活動についてどう思いますか。
有用な創造力とは、突き詰めて言えば企画がすべてである。見えない翼をはためかせて、いざ次なる地平の扉を開かん。

革命児

バックナンバーの「ラブストーリー」を聴く。
何やバックナンバーって?と思ったご同輩。
 新聞雑誌のそれとは本質的に関係がないかと思いきや…。
後になって取り寄せた時それでもって徹底的に音楽史に残るようにとの願いが込められたグループ名のようだ。
 題名の付け方の感性が鋭い。妬んでるタール人なんて思わずクスリと笑ってしまう。
音楽性も割合独特で最後まで聴かせる。
初めて彼らの作品を聴いた時にはそれほど心に響かなかったのに。
食わず嫌いを心から反省。
意外とjpop界の革命児なるやも知れぬ。

「ビバ」

屋久島地方は梅雨入りか。
夏が来る。
そこでこれからの時季にぴったりの曲が入ったアルバムを一つ。
大原櫻子の「ビバ」がそれ。
「真夏の太陽」という曲は二人の恋の行く末最高潮の時季を暗示する。
恋人の出会いと別れを一枚の中に凝縮した作品。
それでありながら、日本独特の季節感をそこに投影した独特の作りになっているところが気に入っている。
「大好き」「勇気とほほえみ」「トレモロレイン」など佳曲が並ぶ。
作家に恵まれた充実した仕事ぶりを思わせる。

景気判断

近頃の景気はいいのか悪いのかよく分からない。
いいとは言われているけれど実感はわかないまま。
今度は悪化したと見通しが代わった。
この世界に生きていると世間の景気判断そのものがより眉唾物に見えてくるから不思議だ。
この間の経済成長率が2パーセント足らずと言うから国民一人あたりにするとそんなに分け前にはあずかれないのは自明の理であるとしても。

置いてきぼり

宮沢賢治に注文の多い料理店という小説がある。
客が料理されていくというホラー的な作品で、店が注文を出し料理にしていくのに引っかかった二人の客が、いかなる事になったかを描写したものである。
人はどこかで自分以外の人を使う時、時として自分がしっかりしていないと、自分が尻に敷かれていいように料理されかねない。
最近福祉に頼る身になって自分が如何に自分勝手に論理を組み立てて人と対してきたか思い知らされることになった。
自分の立場が思ったほど明確ではないために恨まれている。ポリシーをはっきりさせて人と接することが自分の身をたすく事を時に肝に銘じなければ、いずれ社会に各方面から置いてきぼりを食らうだろう。自分は今やらねばならない。

ニューウェイブ

藤川千愛の「ライカ」というアルバムを聴く。
私の歌を聴け。自ら聴衆を鼓舞するように歌い、叫ぶ姿が目に浮かぶようだ。
歌われる題材も自らの身辺雑記的で、きわめて私的な感情を元にしているようだ。
またそれを歌うことに抵抗を覚えてはいない。
少し前ならこれらの詞を歌うことすらはばかられたような歌が、平気でプロデュースされているなと近年とみに思う。
その始まりはたぶん椎名林檎あたりからか。
あいみょんの曲にもその傾向を見ることが出来る。
これら平成時代に始まったガールズポップの新潮流は今後何処へ向かうのだろう。
昭和の時代を知らない世代にとって、これから昭和歌謡のエッセンスを吸収することは新たな刺激に満ちている。しかし単なる焼き直しではなくこれからの新たな時代に通用するための何かを彼女たちは得ることが出来るだろうか。
時代のニューウェイブのこれからに注目したい。

挑戦する心

ざんねんでした。またどうぞ。
このフレーズをあるコメディアンがネタにしていた。
あれは僕の幼少期。
もう四十年ほど昔のことになろうか。
体力がなく気力も安定しなかった当時、僕はこのフレーズに人生の悲哀を見ていた。
明日は遠足。
前日に風邪で寝付いた僕に周囲から掛けられる言葉は「ざんねんでした。またどうぞ。」
これが学校行事ごとに続くもので、そのたびに「こんどこそは」。
またこんどっていつよ。
どうもこれが引っかかる。
校外行事の大切な時間。
自分のふがいなさを嘆きながら、奪われたその時間を思うと、忸怩たる思いがしたものだ。
明日があるさをウルフルズの歌唱で聴く。
あれは大学に入ったその年。
残念をはね飛ばす明日の夢さえあれば、未来は幾たびも好転するものだ。
楊に立ち向かう蛙のごとく、挑戦する心を忘れずに。

黄金週間

ゴールデンウィーク10連休
今年は特例
テレビは令和元日のお祭り騒ぎ
タイガースは4連勝中
平和な祝祭
いつまで続くか
前天皇の退位に始まり
新天皇の即位
みんなで祝おう黄金週間
なんちゃってね

願い

障害児を授かると言うことが、親にとってどんなに大変なことか。
柴田淳に「願い」と言う曲がある。
悲壮感がどこか漂う詞に、両親の思いを思わず重ねてしまった。
でも男女の情愛って、お互いのために命を捧げてもいいと言うまでになって、初めてほんとになるのであって、そこで初めて生まれてくる子を心から愛おしく、守りたいと思うのだと思う。
そんな男女関係の性を歌い込んだ佳作、それが本作である。
この曲を聴きながら、僕は自分という存在に込められた両親からの願いを思い、改めてここに生かされている意味を考えた。
大切な命を無駄に散らしてなるものか。

チキンライス

今日、あゆみ舎の給食でケチャップライスが出た。
何を隠そう、この一品は僕の大好物である。
お子様向きのメニューとして某百貨店の食堂でも供されていた。
懐かしい一品でもある。
鶏肉を入れるとこれチキンライスと言って、ダウンタウンの浜ちゃんの唄った歌の題名になる。
槇原さんの詞、曲に何とも言えぬ郷愁を覚えたのは私だけではなかろう。
グリンピースが不得意という人には悪いがあそこまで庶民的な食べ物を僕は知らない。
小さい時何でも頼んでいいという親に遠慮して、口に運んでいた一皿の味。
大人になって改めてそのお得感に気がつき、感謝で心が一杯になった人たちも多かろう。
曲を聴くとあまりの説得力に納得してしまう。

令和元年

令和元年
この五月。元号が切り替わる。
年度で言えば三月までは平成31年であるから、次の年度から令和2年度という一見ややこしいことになる。
平成の時代は内も外も国事多難続きで、元号の由来とは大きくかけ離れ、「うちたいらかにそとなる」とはなかなかならなかった。
「わにしたがう」令和の元号を僕は勝手にこう読み下している。「わをうたいだす」昭和が積極的に人々の和を呼びかける意味の元号だったのに比べ、かなり消極的。
令和はむしろ昭和のパロディーだとまで言う説もある。
昭和は先の大戦による疲弊と復興そして経済発展の時代だった。
これぐらい消極的な方がかえって平和な時代を死守するにはいいかもしれない。
それでもかつてのような積極的な外交政策が日本の平和をある種保っていたことを、浩宮様には是非とも肝に銘じて頂きたい。

音楽愛

西野カナ「with love」を聴く。2014年の作品。
あるスーパーで売り場販促用に流れていたのを懐かしく思い出す。
インドのガムランを取り入れた「abracadabra」
親しい人との別れに再会を約す「さよなら」など印象的な曲達が並ぶ。
あの日テレ系人気ドラマ「花咲舞が黙ってない」の主題歌「we don’t stop」も入っていて嬉しい。
音楽愛に溢れたアルバムである。

定番

朝食の定番。ハムとチーズをのせた食パンをトースターでこんがりと焼く。
さらにその上に目玉焼きをトッピング。
ヨーグルトと生野菜のサラダ。カップスープ。まるで喫茶店のモーニングセット、いやそれ以上である。
家でいただくご飯。お昼の定番はこれも正統、海苔巻きおにぎり。具として選ばれるのはちりめんじゃこ、梅干しなどいろいろ。それに鰯の缶詰が添えてある。
夜のご飯に定番はなくそのときによりいろいろ。父もだいぶやりくりが上手くなってきた。得意は汁物。筑前煮等作ってくれることも。
毎日のその心が嬉しく、つまみ食いなどもう出来なくなった。

借金

久しぶりに銀行へ行く。
借金をした。
無理のない返済計画をたてる。
完済まであと4ヶ月。
がんばらなくてもいい。
確実に定められた額を納める。
それだけでいい。
もう要らぬ浪費はしない。
そう誓いながら耐える僕。
こういう自分もなかなかのものなのかも。

意識

人間の意識ほど複雑怪奇なものはない。
抜け目がないように見えてもどこかに抜けがあったりする。
抜けたところで大いに助けになったりしている。
だからもう自分としても運は天に任せるしかない。
運は人の間を平等に巡っている。
悪い事をしないこと。
これさえ心得ていれば人はいつでも助けになってくれる。
多くを望まずほどほどの暮らしを心から楽しむこと。
災厄や危難を防ぐために僕が心がけていることはこの二つ。
意識は持ちように合わせてどんどん流転する。
古代ギリシャの哲学者ターレスの言葉は本当である。

身だしなみ

同じ事をやっても
毎日毎日
その一瞬一瞬で
違う時を生きているものだ
僕はそれに気づいた時
自分のやっているワンパターンの行動を
ある意味で肯定できるようになった。
こんな事を繰り返しても実がないと
人は笑うかも知れない
身だしなみを整えるという
ごく単純に思えるようなことが
むかしからぼくには
かえってむずかしい
こんな事かえって
教え込んだら猿にでも出来る
父は何時も嘆いている。

おやつ

禁酒してから一年半。
代わって毎日のおやつが習慣化した。
ポテトチップス。
おかき
チョコクッキー
せんべい
ぴーなっつ
いろいろ父が買ってきてくれる。
今日はたまたまコンビニに入ったので
モナカアイス
いろいろ食べるだけは速いですな
父の言い分もよく分かる
止め時は分かっているつもり。
だからもう少し待っていて欲しい。

いきものがかり

いきものがかり「始まりの歌」を聴く。
真昼の月という曲。
それについて今回は書きたい。
月は通常真昼に光を放つことはない。
それでも白く光るその姿に、個性の輝きを人は見る。
古代からつたうる永遠のしらべを感じるのだろうか。
この曲の詞はいわゆる美文調で綴られている。
いきものがかり円熟の力作。
隠れた名作がまだまだ出てきそうな気配。
これからの彼らの活動にも大いに期待したいところだ。

秋と理子

映画を見る。
彼女は嘘を愛しすぎてる。
切ない。ありがちな設定はいかにもだって言うのに。
さすがフジだと合点がいった。
かつてのトレンディードラマの系譜を見事踏襲している。
東宝の映画撮影にはそれなりの修羅場があるという。それでも松竹よりはましだろう。
うかつにその場を取り繕っていると現場からあっという間に置いてきぼりを食らう。
たとえ主演俳優といえそのことは同じである。
いくつもの修羅場をくぐり抜けているうちに、出演者達は業界のイロハを学ぶ。
それどころか自らの生命財産の危機を撮影の途上に仕掛けられることすらある。
切り抜けられたもののみがスターとして輝くことが出来るのだ。
この映画で主演を務める大原櫻子にどのような修羅場が用意されていたか、出来上がりを見たのみでは推測できかねるし、本人にはあまりいい思い出がないらしく、あまり多くを語ろうとしないけれど、人種間の壁を嫌が応にも見せつけられることになったのではなかろうか。
秋と理子のその後を知りたくなったのは、私一人ではなかろう。

花見の季節に

ねんざで二週間休み。
今まで何度となく歩いていたあの距離が歩けない。
それがなんとつらいことか、今回のことでは本当に思い知った。
何処にも自由に行けないつらさ。
慰めになったのはまたも音楽だった。
miwaのファーストアルバムを聴く。
独特の声量で胸に迫ってくる。
どの曲を聴いてもただいまの逆境をはね飛ばすに足る。
明るく賑やかな曲ばかりで、一杯勇気と元気をもらった。
ベッドの上でのびていた自分に活。
デイケアに出てみると一気にエンジンがかかる。
デイケアで聞き入っていたのは大原櫻子の「ひらり」
ご存じ「チアダン」の主題歌である。
この曲、妙にしんみりとしたバラードだけれど、僕としても思い入れが強い。
桜の花のあでやかさとはかなさ、人との出会いと別れを、しっとりと歌い上げる。
花見の季節にいきなり転がり込んだ中休み。僕もいろんな事を考えたことでした。

サービスの原点

ポイント還元セールというのがある。
買い物100円ごとに1ポイントのところ割引もつけてセールすることにより、ポイントも優遇するシステムのことか。
電気屋さんのCMで聞いたことがあるけれど、昔はポイントカードと言えばお店ごとにはんこを押すので、一枚一枚違っていて当然だった。
はんこをためて500円券をもらい、お菓子を買うのに使ったり、店ごとに趣向を凝らしたポイント還元の仕方というのがあった。
いまはカード会社や電子マネーの会社によりポイントの付け方も画一化している。
加盟店の多さが各会社の信用を支えているというのは分かるのだが、地域による加盟店の偏りが○○カードの場合もっとも顕著だと言わざるを得ず、使いこなしに苦労している。
ポイントサービスも一部によるコップの中の嵐。
消費者により近しいサービスはたぶんポイントだけではない。
各社サービスの原点に立ち返りよく考えて欲しい。

カナさんへ

西野カナが結婚した。
活動休止中のおめでたい話に、すわ引退かと慌てたけれど、それほどのことではないらしいらしい。
ベスト盤「love collection2」を聴く。
2018年現在の最新ヒットがずらり。
ピンク、ミント各十七曲のうち今回は各巻最後に収録されているメドレーに気を惹かれた。
特にミントは本人も気に入っているらしく、気合いの入れ方が違う。
過去にシークレットコレクションレッドが一番気に入っているとこれも本人から勧められたことがあるけれど、その中でも僕のお薦めはtogether(三菱未来館テーマソング)A型のうたの二曲である。
歌は人と人とのつながりが産むものだ。自己愛と隣人愛に充ち満ちた西野の曲を聴く時、改めてその描写力に驚かざるを得ない。
いい曲をこれからもたくさん書いてね。お幸せに。

感受性

もののとらえ方って大事だ
同じ事象でも感じ方によって
徹底的に結果が異なる
導き出される答えを
複数用意しておく
ある種の周到さが
考え方の柔軟性に
ことごとく影響される
この世の発見、発明の多くは
このような柔軟な感受性によって
成し遂げられていることは
言を俟たないところである
原理と応用
同工異曲
換骨奪胎
そのどれもが
人類による技術に
なくてはならぬ要素と
考えられていい
これも感受性の一つであろう

GAP

原爆が落ちた
オレンジ色と黒に
らんらんと燃えさかる
火の固まりを見た
日本の南方
いわばマーシャル諸島あたりに
核所有国の何処かが
一発投下してしまったらしい
夢を見た
黙々とわき上がるキノコ雲
死の灰が降り積もるただ中に
僕は身を横たえている
放射能汚染のゼロメートル地帯で
繰り返す爆発に耐えながら
意外に頭はさえきっている
地獄だ
身体には電線を巻き付けたまま
呼吸が苦しいくせに
その息を潜めた
部屋の中で核実験…
そんな馬鹿な
目が覚めた
何時もと同じ朝の風景
そのギャップに驚いた

楽しみ

いま、youtubemusicにはまっている。
各歌手それぞれのヒット曲を、続けざまに聴けて、映像もお宝映像からアルバムのジャケット写真まで幅広い。
八〇年代アイドルの秘蔵映像は、投稿された映像が多いようだが、それも一つの価値である。
このまま音楽一本で趣味を統一しようにもどうしようもないと思った中途半端な時期を乗り越えて、ここまで来てみるとさすがに引き返しようがない。
通信費は低く抑えられても、デジタルコンテンツの買い物が高くついてたまらない。
楽しみだから少々は覚悟の上だが、費用との兼ね合いは大切である。
さっそくおさえにかかった。悩みは深い。

プラネタリウム

小さい時、科学センターでプラネタリウムを見た。
各季節ごとの空に浮かぶ、銀河系の星達が、天球に映し出されると、その雄大さにうっとりして眺めたものだ。
恋人達がデートでプラネタリウムへ。そのときの状況がどう詞に書かれるか。
これ意外に与えられた条件が条件だけに難しい問題ですけど、大塚愛のそれは、少しずるい。これいきものがかりに話をしても「だいたいどれほどのカップルがああいうところでデートするの」と言われてしまったけど、出来上がった曲を聴けばさすがプロです。
いっぺんに好きになってしまいました。

「優しさで溢れるように」

「強さは優しさの裏返し」そんな言い回しかたがある。
精神的に強い人ほど、人の優しくなれる。
精神力のあるなしが、必ずしも人への配慮の仕方に関わらないとしても。
精神的に強い人の方が、人を客観的に見られる分、心を広くして人と関われる。
 JUJUのヒット曲、「優しさで溢れるように」を聴いてみても僕はその感を強くする。
優しさで溢れる人生を送るための、重要な示唆がある種この曲の詞にはちりばめられていると言っていい。
あなたと大切な人との関係を支えるのは、まず第一に感謝と思いやり。
この曲は、そんな当たり前のことを、ふと思い出させてくれる。

城南宮梅見レク

先週の金曜日、城南宮へ梅見レクに出かけた。
約一時間半のドライブ。
車内ではメンバーのOさんの推薦の懐かしいJポップがこれでもかとかかる。
思い出が一気に胸の中をフラッシュバックする。
レベッカの「フレンズ」久保田早紀の「異邦人」原田知世の「時をかける少女」…
皆でそれぞれの曲の話で盛り上がる。あの時僕は何をしていただろう。
現地に着くと参道をまずトイレ目指して歩く。
みんな入り口で一時待機。後梅園へ入場する。
中出口まですすむのに、所長のmさんに肩を支えてもらいながら、付き添ってもらう。
梅は入り口近くにこんもり。残りをゆっくり見る心の余裕無く、途中でリタイア。
帰りはみんな、ジュース一本が当たる。おつかれさまでした。

あした

明日何しようか?
曜日も日付も分からなかったあの日。
未来だけが広々と広がっていた。
遊んでいればそれでよかった。
いまになって思えば、学校に行くまでのその間の時間は、人生における重要な休憩時間だったように思われる。
家族のなかでこの世で必要ないくつもの事を学んだあの時に比べていまの時間は…
作業所やデイケアで過ごしていると言うことでは、誰かに守られているという意味でやはり恵まれていると言わねばならないけれど、未来に対してより自発的にならないといけないという意味で同じ真っ白な時間でも決定的に異なる。
次につながる重要な示唆を与うるような時間の使い方をすることが明日に対する感受性につながると言うことをあの日にも増して忘れてはならない。

いつかは

読書することより音楽を聴くことの方がずっと多くなった。
読書感想文を書けない分音楽を聴いての感想文に仕上げることが増えた。
ただ音楽と言っても幅が広いのだが、何でも感想文に仕立て上げる自信は今のところ無い。
音楽評論を書ければ将来的に自分にとってプラスだと思ってぼちぼち勉強をと思っているのだが、評論と言うよりはまだ感想文の域を出ない。何時かは湯川れい子氏のような評論を物して文集にでもと思っているのだけど、いつになりますことやら。

みんなで卓球

みんなで卓球をしに行った。
場所はMKボウル上賀茂。
ネットを外して打ちっぱなしにしてもらう。
僕のラリーは台の上にボールを転がして勝負。
僕よりむしろ相手に倍動いてもらっている状態で、なんだかその運動量の差が延々と気になってしまった。
BGMはいまをときめくヒット曲ばかり。
日頃の音楽三昧が功を奏して、ほとんどが聴き知っているものだったので、逆にびっくりしてしまった。
何回かに分けて、スタッフメンバー三人とラリーを楽しむ。
お供は愛のスコール。渇いたのどに一口一口が心地よかった。

ファンファーレ

いきものがかりの7作目のオリジナルアルバムを聴く。
題は「ファン・ファン・ファンファーレ」
これぞマストといえる充実した仕上がり。
アニメの主題歌からCM曲までタイアップも幅広い。
ファンファーレ一発。値千金の珠玉の曲達が並ぶ。
元々この作品を聴いた切っ掛けはYTmusicでの出会いだった。
有線放送を解約してから一気に縁遠くなるかに見えた、私と音楽の仲は、モバイル端末というニューメディアの助けを得て、瞬く間に関係を取り戻した。
「ラブソングは止まらないよ」を耳にしてからアルバム検索で一息で聴いた。
いい作品に対する感受性は人一倍強いつもりだが、これほど運命の出会いを感じた作品も珍しい。
皆様も是非渾身の一作をご堪能あれ。 
「パッパカパーン」

突破口

人間関係が苦手だと思っていた。
人間とは、孤独な生き物である。
でもみんなといないと生きていけない。
この二律背反をどう克服すべきか。
この重要な命題に一つの示唆を与える。
それがけあき坂46のアンビバレントという曲である。
面倒な人間関係をどういう自己主張によって切り抜けるか。
この曲の歌詞からは、頑張ること、一生懸命になることとはまた別の妙な脱力感を感じる。
このある意味でのまとまりのない思考形態こそがそのヒントになるのだ。
僕はこの曲をよく聴いているうちに、ある種のひらめきを得た。
人間のこの二律相反性こそ、対人関係における考え方に柔軟性を与える。
いわゆる一つの突破口を与えてくれるのだと、僕はそう考えている。

節分に

今年は暖冬という予想だったのに、冬らしい寒さが続いている。
そんななか今年も節分がやってきた。
冬と春の境目を目刺しと恵方巻きとおでんでお祝い。
福豆も用意されていてばっちり。
ちと食べ過ぎた。

いいところ

予定の立たないことを予定は未定と言ったりする。
若い時、僕がいた作業所で、これが常態化しているところがあってびっくりしてしまった。

この前渡したあれ、また変わったの。代表から言われることが多かった。
分かるのは分かるけど、何でこんなに多いのですか。
都合が悪くなったとか、理由をつけてしまうのやめてください。
こういう都合もこういう都合もあなたのものじゃないんですか。
こういうご都合主義が気になって僕はそこを辞した。
何かこう同じ過ちを繰り返されるといたたまれなくなったのだ。
なんのために予定表があるのか。
そうなっては施設との信頼関係までひびが入る。
あゆみ舎はその点しっかりしている。
週一回のミーティングの時間で、翌週の予定が、その場にいるメンバー全員に周知されるので、安心して活動に参加できる。
未定な予定は予定表に載ることはないのだ。
自由でありながら、決めるところはばちりと決める。
それがここあゆみ舎のいいところである。

Wi-Fi

モバイル端末を使っているとギガを食うので悩みだった。
動画を見るといっぺんである。
料金を安く抑えることが出来、なおかつ動画見放題。
それにはどうすれば…
最低の料金プランでもWi-Fiとつなぐと定額で使い放題。
魅力に負けてすぐ申し込んだ。
工事不要のおうちでWi-Fi。
確かに速い。安い。
音楽三昧に拍車がかかった。
でも、贅沢は先月で終わりにしよう。
つぎ込む費用がもったいないような使い方はしたくないから。

たまには

いつものように携帯で音楽。
そんなときに父がいきなり言った
「そんなんちごてクラッシックでもどうや」
jポップを聴くのが当たり前になっていた
そんな僕にいきなりの提案
聴いてみると頭にいいかもという話
乗ってみた
妄想が少しでも弱まれば
 こう言うのは確かに気の問題
クラシック音楽で癒された僕の心は
つかの間なれど平安を取り戻したのである
たまにはこう言うのもいいのかも
ハイソで教養のあるお前にはこれが一番
父はやけににやにやしている
なんかこわい

さよなら

さよなら、何時かまた会う日まで。
さよなら、あなたはわたしのすべてでした。
さよならは別れの言葉じゃなくて。
何処か次なる希望を見いだす
さよならはそのためのキーワード
終わりがあるから始まりがある
再び出会い歩き出すための言葉
それがさよならなのだと僕は思う

花束

お祝いに
お別れに
お礼の印に
花束を受ける意味合いはさまざま
愛が込められたそれは
相手との関係性の証
これからもよろしく
おつかれさまでした
ありがとう
さようなら
花言葉にあった
それぞれの場面に合う
そんな花束を作るのに
花屋さんも大変
心を砕くと言います
さあ私からの気持ちです
受け取って下さい
こころの花束を

ラストシーン

帰る家があること
帰りたい誰かがそばにいること
その幸せを感じる時
ふと口ずさみたくなる曲があります
人が出会い
お互いに欠かせない存在になった時
感謝の心で歌いたい
そんな歌があります
人が人を想う時
一つの曲が生まれます
いきものがかりのこの曲も
そんな曲の一つです
是非聴いてみて下さい

投稿

水曜日。カラオケJはどうでしたか。
グーグルから投稿の知らせ。
そう、18日金曜日はカラオケレク。
いきものがかりの曲。
頑張ってミスチルも。
ソフトクリーム。
もう置いてないと聞いて
「がっくり」

がんばりましょう

年が明けた
今年もよろしく
がんばりましょう
本年今日が初仕事
やり残した事々を取り戻して
今年こそ平穏に過ごせますように

superfly

音楽を聴いてという小文でも触れたとおり僕はスーパーフライの大ファンである。
特にベスト盤は好きで何回も何十回も聴いている。
回数としてはまだまだ聞き込みが足らないと思っているけれど、特に最初のベストにはべたぼれしていて聴いていて飽きない。
デビュー曲「ハローハロー」からその才能は飛び抜けていた。
僕が勧める彼らのお薦めアルバムは「box emotion」
これでもかこれでもかと繰り出される印象深い楽曲の数々に、瞬く間に僕の心は虜になってしまった。
バラードに佳曲が多いのは他の実力派バンドと同じく。

心の灯をともせ

頑張れ私
鼓舞してサボり心を封印する
ベッドから動くのもしんどい
しんどい冬のお話
夏の時季と違うこの手の話に
今年は足を取られっぱなし
心の灯をともして
悲しい気持ちをあえて起こさず
今日の課業を専一に
疑わず勤めていれば
やがて道は開かれましょう
それを信じて
ただひた走る私です

モットー

やる気、元気、本気
人間に必要な三つの気を、こう最初にたとえたのは誰だろう。
NHKラジオでこの言葉を聞いてから、何時も気になっていた。
自分には三つの気が上手く作用しているか。
いまいち本気度が足らないから、これは努力が必要になる。
なんにしても力を他人と合わそうとしても自分のやる気を他人に見せないとどうにも願いが天に通じないのである。
精神科に行って二十年。もうあの元気に全国を駆け回った自分の面影も何処にもない。
あまつさえ全国からの助けを全部切ってしまった後だけに、後は誰にこう言うことで助けを求めようとしても、出来ないと言うことは目に見えています。
自分が人になんの助けにもなってないのに、助けろというほうが間違ってないでしょうか。
福祉という世界に生きていると、時に肉親の見せた無償の愛が、愛おしくなります。
なかなかこれからはやる気を見せても難しいけれど、この三つの気の話だけは人生のモットーとしても忘れずにいたいと思っています。

やばい

最近の若い子はそれに虜になりそうとなるとすぐ、やばいという言葉を使う。
何処か危なげなことを起こしそうで、または起こしてしまってからも、やむなくそれにはまってしまっている状態を、やばいというのが本来の意味であるのに、それがいいように書き換わってしまっている。
何このアイス、美味しい。やばい~などと言って使っている。
そんなにやばけりゃやめればいいものを、最近ぼくの家で一気にすすんだのが電気系統の劣化である。
取り壊したいのに、誰も信じてくれない。オルニチン除去などすすまないので漏電の可能性も出てきた。やばい。

グラコロ

今年は年末の予定が立たぬ。
例年ならあれやこれややりたい事が出来たのに。
身体の調子が立つ時は頭の調子が立たず、頭の調子が立つ時に身体の調子が立たん。
リハビリをしていれば、この寒い冬も、身体の各部感度良好で過ごせるのに。
頑張れ自分。体重と体容積の増加は日頃の不摂生を示す。
マクドのグラコロセット食べながら、このお肉がもっと働けば、歩きやすくなるのにと、反省することしきりである。
急に寒くなって一気に身体が動きづらくなったのかも。
父が慰めに奮発してくれたそれを口に運ぶ。
気持ちがありがたく、こちらの身体にも徐々にエンジンがかかりだした。
確かにこう言うのは気分的な問題である。

水没

水没という現象を初めて知った。
電気コードや充電池に水入りするとプラグを伝って電線まで浸ってしまう。
ぼくの携帯も悲しいことになった。
牛乳と本体をカバンの中に一緒に入れて、本体が液体まみれ。
ショップで見てもらったところなかの電池まで牛乳に浸る。
しかるべき時に送電線を洗わないと、家の中のすべての電化製品が水に浸る。
我ながらえらいことをしてしまった。
水没から逃れられないとなれば、一生分の負債が我が肩にのしかかる。
皆さん、携帯電話の背面カバーは絶対に自分で開けないでくださいね。

音楽の時間

学校の音楽の時間が苦手だった。
特に楽典となれば、もう手がつけられなかった。
クラシック音楽も、右から左に聞き流す。そんな状態だったから、作曲家の名前と作品名は押さえられ、丸暗記できても、肝心の曲はうろ覚えのままであった。
最近の音楽教科書には、多くのジャパニーズ・ポップスの名曲が取り上げられているが、当時の教科書では杉田かおるの「鳥の歌」や山本潤子の「翼を下さい」くらいが関の山。
音階で遊ぼうとしても音程の意味するところから勉強し直さねばならず、後日大変な思いをした。
その再挑戦の切っ掛けになったのが、サザンの「津波」という曲であった。
和音の意味とコード進行。それと音階との関係など、一から勉強のし直し。
独習なので気楽ではあったけれど、仲間がいないのですごく寂しかった。
教科としての音楽を軽視しすぎたと、ぼくはそこで初めて後悔したのである。

通信障害

昨日の13時くらいから、インターネットがつながらなくなって、悲しい思いをした。
それはそれで音楽配信はつながっているので、退屈はしないですんだ。
何処にも電話できない状態が長く続くと、不安は募る一方である。
音楽を聴きながら、真っ暗な自分の部屋の中で、息苦しい午後を過ごしていた。
五時間後、アプリのニュース配信で動画が送られてきて、初めて事態を把握した。
いままで通信障害とは無縁。
人ごとのような状態でいただけに、今回はショックだった。
通信機器の発達を支えるインフラが、意外ともろかったと見えて、びっくりしている。

愛・おぼえていますか

「超時空要塞マクロス」の主題歌。
この曲をまたリクエストして聴く。
飯島真理さんの甲高い歌声。
昨日まで戦火に明け暮れた世界は、いま愛に輝いている。
第二次世界大戦後の平和を、祈念してつくられたと言うこの曲。
歌詞を聴いてみると、何処か照れくさいながらも、忘れてはいけない大切な何かを読み込んであるような気がしてならない。

カレーをすくって

ヘルパーさんとカレーを作った。
五皿分の材料すべてつぎ込んだ濃いカレー。
それを数日に分けて食べる。
何日か続けざまに同じメニュー。
そうなるものと決めてかかっていた。
ところが…。
明くる日鍋をのぞくとあれほど余っていたカレーが跡形もない。
父は一言。「しもたわ」
保存してまたの日に出してくる。その手をうっかりしていた。
十日ほどたってやたらこんもりとカレー皿に盛られたカレーが一膳。
何か一回で食べるのももったいなくて。
カレーをすくいながら、過去の自分に思いを馳せる。
この働きならもうちょっとルーを薄めて掛けないと罰が当たるな。

陽水さん

今年に入って、井上陽水のアルバムを、再度聴く機会に恵まれた。
かつて母がすすんで愛聴。彼のアルバムはすべて所蔵していた。
その中の一枚に、ぼくは強く引きつけられた。
「Lion&pelican」がそれである。
「背中まで45分」「お願いはひとつ」
「ワカンナイ」「とまどうペリカン」「カナリア」など名曲揃い。
彼の詞は言葉遣いが独特で、何処か遊び心に溢れている。
「チャイニーズフード」なんかその極致である。
  最新の夢 テレビチャンネル
  サイレンの響き ため息だけがフー
  お茶まで熱くてフー
  みんなで食べる美味しいチャイニーズフード
この歌い回し。サビだけ書き写してみてもその独特な世界観が垣間見えて
興味深い。
日本語への彼の鋭い感覚は、時にストイックなまでに人間の本質を戯画化してみせる。
そこに作家としての彼の普遍性を見ることができよう。

YOUTUBE

幻覚がひどい。
頑張っていきたいのに、身体がついていかない。
布団に突っ伏したままyoutubeをかける。
中森明菜、松田聖子から井上陽水、奥田民生,zard,speed、
ミスチル,superflyにいたるまで目の前をさまざまな動画が通り過ぎる。
かつての楽曲群を一発でリストアップしてくれるのだから、技術の進歩はすざまじい。
それらを時には真剣に時にはうとうとしながら眺めるひととき。
さぼりだ。やりたいこともできないのに。そういう思いを一方で持ちながら、他方で必死になってそれを打ち消している。
そういう自分が愚かしく、哀れにも滑稽にも思えてきて、この現実がいつまでつづくのだろうと重々しく考えたりするが、意外にも流れてくる歌の詞の数々に気持ちごと救われていることが多いことに気づいて、はっと気持ちが切り替わったのである。
動画配信や楽曲配信をスマホで簡単に受けられてみると、その有り難さが嫌と言うほど骨身にしみるのだ。
これもひとつの時間の使い方。現実である。

創作の裏側で

「下町ロケット」町工場がその力で小型ロケットの開発に成功。大いにその士気を上げる話だったか。
関西のある町工場がラジオ衛星「毎度一号」を開発、打ち上げたのが、今から二十五年ほど前。
Jaxaが出来たのはちょうどその頃だ。
日本の本格的な宇宙開発はここから産声を上げた。
そう思えば歴史はまだ浅い。
民間主導のロケット開発に夢を乗せた某事業家も投資に失敗した。
その中でああいう小説が書ける池井戸潤さんの文才はすごい。
あるところまではぼくはそうおもっていた。
銀行の裏から外資による企業買収、宇宙開発ものに至るまで、ドラマ化されるものされるものが面白いと思ってもいたけれど、僕はこの小説の数々とある財閥との関係がやたら気になりだした。
切っ掛けは東京第一銀行や帝国重工に実在のモデルがあるのではないかという疑念であった。
昔僕がM社にお世話になっていた頃に起こった裏話にドラマのエピソードが微妙に関連付いているのだ。
裏話が元ネタになっている小説ってそのまんまだから何か悲しい。
脚色は後から出来るとしても、あれだけの現実が出てくるのはすごいことだ。
でも一方でぼくはこう感じるのだ。現実を浪費してストーリー化する事へのむなしさを池井戸さんは感じないのだろうかと。

「わかれうた」の真実

幼いときよく転んだ。
大抵一人で立つことが出来ないところから始まったから、歩く時も大変であった。
 転ぶたびに誰かの助力を得ようともがく僕。
それを見た母がよくこう言ったものだ。
転んでも誰か呼んでわんわん泣いてみても誰も助けてくれへん。自分の力で立ちなさい。
中島みゆきに「道に倒れて誰かの名を云々」の詞がある。
それを見て僕はこう思う。
この詞は、そのときの母の言葉はそれはそれとしても、それとはまた違うある一面の真実を示しているように思えてならない。
人の苦境を見て見ぬふりと言うことは、それでも多くの場合無いのである。
そう、当てにするでも無くいるとお互い助け合って生きているのが人間である。
何時も気がつけば誰かに見守られて生きているのであって、「何時も気がつけば一人」というのは、よっぽど身勝手な人の独りよがりに過ぎない。
たぶんこの逆説的な物言いが中島の言うところの真実のような気がしてならないのだ。

イノセント・ワールド

覚えているだろうか
無心に何かに集中できたあの時
無邪気にそのことを喜べたあの時を
出来上がった発想や生産物に
高い付加価値をつけてこそ
人間の労働には意味があるのだ
肉体労働というものには
体力的限界が絶えずつきまとう
しかし精神の生み出す生産力には
ある意味で制限がない
それに気づいた時僕の心は
他にも勝る自由を手に入れたのだ
一編の詩を作った時
スマホのシステム設計をやり遂げた時
僕の心は喜びに弾んだ
未来のひみつを創り出す喜びは
他の何物にも換えがたいものだ
長い時を経てそれら精神の生産物を
再び手にした時
想い出と共に蘇るのは
ここまでの長い思索の跡
通信技術の発達は
人類を今後何処へ連れて行くのだろう
覚えていますか
あなたのイノセント・ワールドを

一生の仕事

転機ってなんだろう。
あゆみ舎に来てからここまでも、なんだかんだあったけど。
どうも文章から説明的要素を除いて、詩的に描写するようになってから、読みやすくなったねとのお褒めの言葉を、よりいただけるようになったみたいだ。
授産をやめてしまった。
やりがいのある仕事を選ぼうと、文章の仕事一本にした。
あゆみ舎だけが作業の場になって、退院後の僕に何が一番大切か、改めて考えた。
「書き続けること」これで一生あゆみ舎で食いっぱぐれないように、全力でガンバレ。
諭吉の心訓7箇条のうち、仕事に関する事々は、如何に人の一生について、その比重が大きいかを如実に読む者に物語る。
やる仕事のない人生は虚しい。
一生続けられる仕事を持てること。これこそが最高によいことと、そう福沢は述べているのだ。
人生の転機は気づかぬうちに、そっとやってきて人にささやきかけるものらしい。

ちっぽけ

取るに足らない小さいこと
ちっぽけであると人が言うことほど
実は大きな意味があると思う。
積み上げたものの大きさに
時に身じろぎすることもあるから。
「こんな事して何の意味があるだろう」
そう人は笑うかも知れないけれど。
「小さな事から一歩ずつ」
ある人は言う。
「あんたいらちなくせに何いうてはりますの」
そう身内に笑われながら。
ちっぽけであることは決して安っぽいと言うことでは無い。
雨降れば地固まる。
やがていぶし銀の輝きを放つように…
そんな生き方に憧れる。

やりたいこと

やりたい事はないの?
訪看さんに聞かれる。
何も。
音楽聴くのは好き。
するとyoutubeですか。
携帯以外でないの?
本を読みたいのに。
最近は目がつらくて。
そう言えばCDを聴くこともなくて。
音楽もデジタル配信ですんでしまうし。
テレビも見ません。電話の画面でポータルサイトを見て。
また携帯ですか。それ以外では?
うーんやりたい事ってないな。
あゆみ舎で文章も書いているので、スキルアップできれば。
そんな僕に訪看さんはあるサイトを見せてくれた。
福沢諭吉の心訓。
やりたい仕事がないのもつまらない。
やれることを地道に仕事にする。恵まれている自分。
なかなか考えさせる七箇条である。

テクシー

いけないことを覚えてしまった。
禁断の実を食べてしまった。
懐寒々。楽をしただけ後ろめたい。
こんな事なら、サイフの中に札を入れなきゃよかった。
要らぬ支出がかさんで、こんな事で財政が苦しい。
歩いた後の達成感。
タクシーに乗るという選択をすると、それも丸ごと犠牲になる。
後悔先に立たず。
もうこんな思いをするのは止そう。
タクシーよりはテクシーで。
この心がけやよし。そう信じて。

福音

「同じ過ちを繰り返すな」よく言われる。
何回も何回も。ついやってしまう。
人はそう言う生き物。そう正当化することも。
消えない過ちを、犯してしまった二人は、厳寒の冬を堪え忍ぶ。
真白い雪に埋もれて咲くヒイラギのように。
DO AS infinityのあの曲を聴く。
捲土重来を期して待つ。
傷ついた二人にとって、ヒイラギの実は春また遠からん事を示す。
いわゆるひとつの福音なのだ。
こういうところにキリストの生命力を重ねてしまう。
幾たびも復活し得る強さ。
大昔、キリスト教徒達は救い主の持つそう言うところを、ヒイラギの一枝に託した。
絶えて花開く梅の花に、日本人が永遠の価値を託したように。

私のために

秋は確実に歩みを早め、とうとう今年もあと三ヶ月。あと半月もすれば冬の候。
七ヶ月にもわたる長さの入院生活で、僕のなかの何かもすっかり変わってしまった。
人間がおっとりしてしまったのか、注意してやれば何でもないことで、父に叱られることが増えた。
絶えずぴりぴりしなくなった分、何かが抜けてしまうのだ。
父もかえってそのことでは、神経的に参ったとは、口では言わなくなった。
もちろん注意はされるのだけれど、以前の父と比べて何処かしら優しい。
訪看さんももう入院しないように気をつけてと父との喧嘩については特段の心配りを寄せて頂いている。
外食もほとんどしなくなった。
父はそれでも何故感謝の念がこんなに薄いのか、こんなにお前のためにやってやっているのにと、不満そうである。
僕の症状に幻覚が出てきてからというもの、こういう対立項で衝突することが、今度は日増しに増えてきた。
ごめんなさい。
人に言えない内容の幻覚で身体の感覚が正常に戻らないからどうしてもそうなるのだけど、自分なりにそれを乗り越えて頑張るから。
お父さん応援してね。
何時もありがとう。感謝しています。

やめて

今年は台風の当たり年。
よくもこう雨が降りますね。
悲しいくらいの曇天から、金だらいをひっくり返したように。
今回は停電は免れましたが。
暴走台風。次は何処をどう通るのでしょう。

釣果を楽しむ

あゆみ舎の給食に昨日の釣果の小アジが載った。
南蛮漬けにしてある。
一匹一匹をよく眺めながら、口の中へ。
こりこりとしていて、非常に美味しい。
これで釣れたお魚ちゃんも即身成仏である。
味噌汁と合わせて二度三度。
みんなで楽しんだ後のお裾分けは、程なくしてすっかり胃の腑に収まってしまった。
いつものおかずに一品加わり、何か二倍も三倍も得した気分。
また機会があれば。釣りレクに再び思いを乗せて。

2018年秋レク

小浜にメンバー八人で釣りに出かけた。
途中釣り餌を売る店をのぞいたり、スーパーで昼食を買ったりして浜に着いたのはお昼。
水面に光る日の光。釣り出しは天気上々。
サビキの竿に次々かかるコアジを釣り上げ、何処を見てもいい感じ。
大物二匹釣り損じた。これは痛い。二メートルはあるで…。そんな馬鹿な。
冗談はさておき、仕掛けを持って行かれたり、糸が切れたりいろいろ。
あちこちですったもんだの花が咲く。
ぐぐっと竿がしなったと思ったらもう一丁上がり。面白いように獲物がかかる。
針魚柊河豚など他の小魚もたくさん。
前日からのコンディションが嘘のよう。充実した一日になった。

距離

こんなはずでは…

思っていたことがどんどんどんどん実現して怖いほどだった時期があります。
あまりの怖さに目をつぶりそうになった時、身の丈を知ると言うことがどういうことか教えてくれたのは、自分の体調でした。
デイケアでの自分の待遇としては外からのぞいて置くぐらいがちょうど良くて、集団のなかにすっぽりと埋没すると自分の立ち位置が見えなくなってしまうことに気づいたのはつい最近のことです。
周囲の必要としている私は自分の思って居るほど大きくないのかも知れないから、もっと自分の気持ちに余裕を持っておくのが大切。
無理に周囲の言うことに自分をあわせなくても、自分のペースでデイケアを利用する。
私の主治医はあまりその空間にいなくてもいいと感じておられるのでしょう。
こうつきあいが長くなるとかえって距離を置いたほうがいい性格なのが、先生にも私にも見えてきたのかも知れません。
時間をおいてみるからかえって分かる心のありようがあります。

頑張る

そんなに頑張らなくていいよ。
精神科では、頑張るという言葉を、注意して使わねばならない。
サボっているから、頑張っていないと言うことも、一理言えるかもと思う。
逆に頑張っているのに、サボっていると言われることもあるから、これが困る。
頑張らなくていいよ、というのは、加療中における、一時の声かけに他過ぎない。
特に後者のような場合には、間違った努力の仕方をしているのに、本人が気づいていないことが多い。
正面切って、あなたの努力の仕方は…等というと、角が立って本来本人に聞いてもらえることも、まともに聞いてもらえないかも知れない。
そこでとりあえず まあ頑張りすぎないで、肩の力を抜いていきましょうと言って、真面目すぎる努力の前提から、患者を解放してあげるのだ。
患者本人が正しい努力で、人生の荒海を乗り切る手伝いをしますよ。精神科はまさにそのためにあるのだ。
頑張らないで、ぼちぼちと行きましょうという声かけは、だから決して病気を治す取り組みまで、本人がしなくてもいいという事を意味するわけではない。
では間違った努力とはたとえてみるといったいなんなんだろう。
新幹線で目的地まで赴く時、車内では大抵の人が座席に座っているだけで、そこに到着する。この時車内を走り回ってみても目的地そのものへの距離をつづめることは出来ない。かえって走った距離分徒労に終わるだろう。
この徒労に終わった頑張りが、間違った努力にたとえられよう。
皆様、的を射た努力で、実のある頑張り方をして、有意義に人生を送りましょうね。

いいんだか悪いんだか

「いい時もっとこういう事すれば良かった」
「悪い時は悪い事が重なるもので…」
こういう言い方を良く耳にする。が、そもそもいい時悪い時って一体何だろう。
いい悪いというのはあくまでも主体的な話で、それを自分がどう思うかによる。
その多くは客観的に見れば、いいんだか悪いんだか判断がつきかねる。
後でそれらを良くするも悪くするも自分自身だという気がする。
頑張り時に何か自分にプラスになることをしておくと、良きにつけ悪きにつけ自分を助けることになる。
こうなるといい時悪い時とこだわるのもいいんだか悪いんだか。
禍福はあざなえる縄のごとしと言う。
けれど、その時々の状態を、良い方に導いていくのも、自分自身の持つ力なのである。
それを他人のせいにしては、絶対に物事は良い方に転がらない。

思いいづる事など

やっと暑さも一段落。
台風の後で天気も下り坂。
健康で文化的な生活を。
半分夢見心地のベッドのなかで、借財の返済計画。
うとうとしている半覚醒状態の一方で、妙に現実的なことを考えたり。
美味しいおにぎりを昼間ぱくついていて、父親の愛情に思いを致したりして。
酒をきっぱり止めてから、もののとらえ方に前ほど雑意が入らなくて。
忙しさがなくなった今、暇そうになっただけ、金策だけに意を用いているように思える。
その点少し悲しい。
片づけられない身辺の整理、ケアホームでの部屋や備品の使い。
自宅での過ごし方がそう言うことにすべて出る。
恵まれたこの一瞬を無駄にするまい。

アプリ

眠れない夜はyoutubeを観て過ごす。
合い間にcfが入るのも一興。
何故か僕のお好みの曲ばかりが並ぶ。
二時間あまり見っぱなし。
ちょっとしたコンサートフィルムののりで時間の経つのを忘れる。
アーチストのアルバムを聴きたい時も夜に流していることも多い。
が、深夜帯、気をつけたいのは音量である。
スマホアプリはそう言う時に大活躍する。
昼間はtvドラマを見る。
あゆみ舎にいる時はなりを潜めているが、阪神戦を聴く時もラジオが起動できて便利である。
多機能携帯で持ち運び厳禁になった例が精神科では起こったらしい。
いろんなアプリを取り込みながら、快適である一方、周りに配慮した使い方をしたいものだ。

カウンセリング

週四で訪看さんが来る。
いらいらや不安がないか尋ねられる。
ないです。そう答えることが多い。
そのときそのときの不安は何とかやり過ごせても。
精神科での不安感は、ある種一般的なそれとは趣が異なるもので。
「対人関係に問題があって不安」などと言ってみても、それが普通ずっと続くものではありません。
それが一般的な感情としての不安なのです。
人は同じ感情に日がな一日囚われるわけではないのです。
感情障害は、そこのバランスが崩れ、ある一定の感情に、場合によっては一生囚われていくこともある病気です。
カウンセリングは自分のそう言う感情にどう折り合いをつけていくか、臨床心理士さんと一緒に考えていく作業です。
言葉が自分の感情を如何にスケッチしていくかが、そこでは重要になっていきます。
それが容易に引き出せるようになっていけば、たとえ当面でも自分に明確な目標が出来そのための感情の自己表現が出来るような環境を整えていけるようになるのです。
カウンセリングはそのための手助けをする道具立てにしか過ぎません。
感情が自分で上手く整理でき、やりたい事がはっきりすればもう必要がなくなるものなのです。

雨の物語

化粧する君の その背中がとても 小さく見えて 仕方ないから・・・
イルカの「雨の物語」
先日某ラジオで久方ぶりに耳にした。
物語の一ページ目には、誰もが胸弾ませて入っていく。
なのにあなたと私の間の悲しみ。
二人は分かっていたはず。
あまりにも雨に彩られた寂しい物語だと。
そしてこの曲は主人公達のその後を暗示して終わる。
雨の季節。
九月に入りまた今年最大級の台風が四国地方に上陸するという。
冷たい雨が土をぬらす。
いろいろな災害のなかでももっとも身近な秋の暴風雨、長雨に、人は悲しみに暮れる夜を過ごすこともあるかも知れない。
天候はしかし、絶えず変わり続けている。
同じ状態で時が移り変わることもない。
生きてさえいれば何かを生み出せるし、それにより報われることもある。
豪雨被災地の皆さん、人は一人ではありません。

言霊

言葉を発する時は丁寧に。相手の気持ちを考える。
伝えることが伝わりやすいように、簡単でわかりやすい語彙を使うようにしましょう。
思考は時として、現実化することもあります。
あまり良からぬ事は口にしないほうがよろしいでしょう。
ついうっかり軽はずみに、自分の独りよがりな了見で発言する。
すると、そちらの発言内容がおもわぬ形で本当に起こってしまうこともある。
そうなると、後で大慌てともなりかねません。
それだからこそ、かえって起こった方がみんなに対して良いと思われることはすすんで口に出し、自分から始めるがよろしい。
まず隗より始めよとことわざにも申します。
言の葉の咲き幸む国。昔から日本人は言葉を大切にしてきました。
言葉の一つ一つに神が宿る。本気でそう信じてきたのです。
言霊信仰はこうして生まれました。
言葉を無駄にしてはいけない。
生きた言葉で生きた関係を取り結ぶ限り、人間は永久に死ぬことはない。
僕はそう信じています。

アイドル

乃木坂46のベストアルバムを聴く。
どの曲も秀作揃いで気に入った。
一曲目から最終曲まで一気に聴かせる。
何か宗教色を感じるという人もいるが、どんな曲もまっすぐな心意気を感じる仕上がり。
意味深なのはAKBの対抗馬と言われながら、出は全く別の所にあること。
農業アイドルの草分けとして白米消費普及ソングまで歌っている。
雑草のようにこの競争社会を生き抜いてきたグループの芯の通った部分を感じる。
これらの作品群にある種ののっぴきならなさを見るのは、私だけではないだろう。
偶像崇拝はこの国に於いてある形を持って延々と生き続けているのではと思われて興味深い。
若者達はこの現代の巫女達の歌声にどういう信仰の形を見るのだろうか。

紙飛行機

日めくりカレンダーを見なくなって久しい。
一日一日、就寝前にめくりはがした一枚一枚を、計算用紙にする。
落書きに使う。
そのうち紙飛行機を折りたくなった。
それは薄すぎるわ。もうちょっと厚みがないと。祖母から千代紙を渡される。
不満である。
月めくりカレンダーの大判のやつで、使用済みの紙を使い、大きめの紙飛行機を折る。
この一件でうちで日めくりを手にする習慣まで廃れてしまった。
計算用紙は更半紙に化けた。
後で祖母はそれを嘆いた。
日めくりだからいろいろ使いでがあっていい。
それを得るのにこちらがどんなに骨を折っているか、考えたことがあるのか、お前達は。
母と二人並んでお叱りを受けた。
いいものを得ようとすれば、それを分けてもらう人との絆を大切に取っておかなければ、なかなか難しいのもこの国である。
紙飛行機ごときでこの関係まで台無しにされては、祖母にはたまったものではなかっただろう。
あなたにも思い当たることはありませんか。

掌(たなごころ)

次はどんな元号になるのだろう。
ついに来年五月、皇太子が新天皇に即位される。
国難のない平和な日本をとの思いで、国民のために立ち働かれた今上陛下の志を、是非次の時代へと引き継いで頂きたい。
これが国民の象徴としての現体制下での皇統のあり方であり、憲法に定められた国民の総意に基づく。
日本の代表的な家としての皇室が国民の出す国の予算による運営に変わっていった現代。財政的に厳しいとも巷間伝えられるけれど、こういう話を聞かされるにつけても、皇室の経済的独立による自立を損ねた今上陛下の掌が口惜しい。皇太子様にどれほどの認識がおありか。

話を聴いて

道を外す。筋道が通らないことをする。すなわち人倫に違うこと。これはしてはいけない。その人は言った。
道にしたがっていくと、必ず行くところにはたどり着く。逆らってはいけない。
自分の辿る道を選ぶのは自分自身。とはいえそのときそうなるべくしてそうなったと言うことも、要素として存在することを忘れてはならない。
人同士の出会いと別れがそれ、時の巡り合わせもそう。
自分の道を一歩一歩進むだけ。
自分の生き方を決めるのは、この信念。頑張っていこう。
「元気出していこう。声かけあっていこう」河島英伍の曲を聴きその生き方を思う。不器用だけど一本気。その話を何時までも聴いていたい人だった。

芸人さん

人に笑われる生き方をしてはいけない。
人をほのぼのとさせる生き方がしたい。
明るく人を照らす生き方がしたい。
ひとをほっとさせるには、じぶんのことをとやかくいわず、ひとのことをおもいやることです。
もうちょっと人に気を遣いなさい。
自分勝手な僕は、両親に良くこういわれて育ちました。
人を笑わせたい。おもしろがらせたい。そう言う人は良くいるけど、かくいう芸人さんの笑いは、時として残酷なことが多い。
どうしてなんだろう。心ない笑いに時として彼らが傾くのは、
これは人を食った笑い。傷つける笑いだという自覚なしに、人をあざけっている。
僕は関西のこういう芸人気質が大嫌いである。
ある知り合いにこれを言ったところ、これは育ちと違うかなと言われた。
店に入っても、君には何でもあるんだろ。芸人になるような子には、ああいうこと何もないのやで。
はじめは信じられなかったけれど、彼らにはものを創り出す喜びも、人と物を分け合う楽しさも何もなかった。
僕ははっきり言ってはじめからそれらのない人々の存在に驚いた。

夏が来た。

サザンの夏。tubeの夏。dapumpの夏。
夏の歌を暑気払いにばんばん掛けて、ウナギをかじっている。
土用が来て、クーラーをがんがん。
カルピス、オレンジ、コーラ、牛乳、麦茶、アイスコ-ヒー。冷蔵庫に飲み物どかどか。
あずきバーをめいっぱい食べ、父に注意された。
昨日には待ちに待ったショートケーキ。誕生日のお祝いに赤飯と真鯛、お味噌汁。
今年の夏は食生活がとことん美味しい。
なんかかわったことでもあったのかな。

上手の手

僕の腕時計はアナログ。
長針と短針があって文字盤から時刻を読み取るあれ。
僕の部屋の置き時計はデジタル。
液晶パネルに時刻が表示されるあれ。
アナログ表示は後何分でその時刻になるかを目算するのにひじょうにすぐれている。
対してデジタル表示はその刹那刹那の時刻を視覚的に知ることに効果を発揮する。
アナログ思考で大事なのは、物事の定量的な把握である。
それがあるから目算が可能となるのだ。
外をぶらぶら散歩。そう言う時にもだいたいそれにかかる時間がどのくらいか、ある一定の期間続けていると分かる様になる。
こういう勘が働くのが元々動物の持つアナログ的な思考方法にある。
これは人類の持つ経験則上明らかな事実であろう。
目算はあることをしなれていくうちに、自然と備わっていくものである。
一方で慣れは目算に思わぬ狂いをもたらすこともある。
し慣れたことほど、慎重に事を運ばないと思わぬ失敗につながる。
調子に乗って気分に波が出来るだけで、ずっこけてしまうのでこれだけは心したい。
 「上手の手から水が漏れる」ということわざはこれを戒めたものである。

カテリーフ

暑い日が続いている。
連日三十八度を超える猛暑日に熱中症の犠牲になる人が多く出ている。
熱いアスファルトの上に手をついて、当方大やけど。
病院で応急処置の後、家にとって返す。
救急車で運ばれ、晴れがましい思いをした。
それから三週目、訪看さんの献身的な処置の結果、何とか回復傾向にある。
ありがたい。
その間カテリーフと言う一種の絆創膏のようなものに、初めてお世話になった。
両手の指をビニルのような材質でぐるぐる巻き。
出来るだけ取らないでくださいよ。傷口から膿が出て、患部はずくずく。
湿って取れそうになる。
そこを我慢すると、その体液による作用で傷口が快方に向かうのだという。
暑い暑い猛暑日は、来る日も来る日も続く。
クーラーの効いた部屋で、最初は電話を取るのも不自由する有様。
あゆみ舎にも医院にも行かず、そのままベッドの上でぼんやり。
指や腕には毎日のように訪看さんが巻いてくれたカテリーフ。
そのうちスマホで音楽を聴きながらぶらぶら。
傷口は日を追うごとにふさがる。快癒するのかと最初はあまりにも不安だったのが、今では出口がだいぶはっきりしてきた。カテリーフ恐るべし。

希望

いきものがかりの曲で、「ソプラノ」というのがある。
未来の約束はやがて成就するのかどうなのか、今の時点で言い切ることは難しいよ。
でも希望を持って生きることが、次につながるのなら、それでいいんじゃないかな。
夢をなくしても、希望だけはなくしてはいけない。つぎなにしよっか。
それだけを積み重ねてここまで生きてきた…様な気がする。
やりたい事は何。夢と呼ぶにはあまりにも小さい。そんな目標を掲げて、遅々とした足取りで歩んできた道のり。それを思いこの歌を聴く時、この生き方の困難さがもろに出ている詞なのに驚いてしまった。
夢破れてもいい想い出だけは取っておこうよ。この考え方がこの曲の救いになっている。
大風呂敷を広げていても、現実はこんなもんよ。
この曲は同アーチストが歌う「茜色の約束」のアンサーソング。
昔から肝心なところが妙に現実的な僕の人生に、果たして夢と言える何かがあったのだろうか。それでも時々僕はそういう風なことを考えてみたりする。

いじけた。

幻覚妄想の上にこの暑さである。
精神的なタフさがなくなったのか。
あゆみ舎から帰ると、着替えてペットボトルをごくごく。
風呂に入りたいのにタイミングを逸してしまう。
一直線に布団へダイブ。西野カナの歌みたいな。
訪看さんは「良くやっていますね」という話で、誉めてくれるけど。
病院を出て、体力が落ちても…と言うのだけれど、きついなあ。
この三連休は、家にてこもりきりが良いかな。

キーをたたいて

スタッフのHさんに言われた。鉛筆は?
あー。もう使ってないんですよ…。
使われるかも知れないなら、置いときますね。
気がついたら、まとまった文章を、ワープロで、自在に打ち込んでいる自分が居て驚く。
原稿用紙をこのところ使っていない。これもひとつの進歩。
だいたいどれぐらい打てば、どのぐらいの長さの文章が出来上がるか、もう見当がつくようになったこともあるし、自分の文章のカラーも見えてきたからと言うのも大きな理由である。
パソコンのキーボード配列になれてきたので、原稿の控えが要らなくなったけれど、その分問題も起こってくるかも知れない。
パソコンでの問題は、原稿保存の状態の良し悪し。
僕が今までにあゆみ舎で書いた原稿のうち、ほとんどが紙媒体でほぼ三分の一しか、パソコン編集していなかったことを考えれば、如何にプログに採用するまでのハードルが高かったか、と言うことになろう。
つまり、原稿用紙に鉛筆で書いたものの、ほとんどがすかたん。日の目を見てはならない原稿がほぼ半数とかなりの量に昇るのである。
頭の中でどれだけ良い文章を構成できるかが、これまで以上に大切になってくる。

雨の一日

この一週間、お天気が優れないこともあり、一歩も外に出られない日が続いた。
最新の台風情報を常にチェックして、その情報を頼りにマスコミはみんな、今日月曜日あたりの大阪地方を快晴とはじき出している。
ということは、降りに降った雨のあとだけに、これで近畿は梅雨明けに向かうのだろうか。
台風八号の傷跡は生々しく各地に数え切れないほどの被害をもたらした。
僕の住む街も避難勧告が発令され、スマホに初めて通報されてきた。これはすごい雨だ。滝のような豪雨が街をひたひたにしている。
市から各地域ごとの通報が来るたび、大きな音声で読み上げてくれるので、助かる。これが文明の進化でなくて何であろうか。近未来の通報システムに感心することしきりである。
ニュース速報は続々と到着するし、退屈は大抵これで紛らわすことが出来た。
ヴィデオを見たり、音楽を聴いたり、各誌の記事を読んだりする内に長いはずの一日は、忙しさの内に瞬く間に過ぎていった。今言った事々はちなみに、すべてスマホ一台で片づいてしまうのだ。
すごい世の中になったものである。

駄目なものは駄目

おみ足お悪いようですね。
ご無理もいけませんから、一本でそこまで行けるバスがいいでしょう。
そう声を掛けてくださる方も多い。
しかし僕はかえって、いいえ乗り継ぎでも目的地に着けば、それで良いです。表立って口に出せないこともあるが、これが本音だ。
一本で目的地へ。そんな話は虫が良すぎる。途中であれやこれや寄り道する楽しみを覚えてしまうと、乗り継ぎ地点こそその格好の口実になるのである。
途中のバス待ちを挟むことで時間稼ぎに、またバス停までの道すがら、歩数も稼げる。
支援センターの担当ケースワーカーにその話をすると、乗り継ぎの是非はともかく、寄り道はいけませんねえ。まっすぐに目的地について下さいよ。
寄り道ってさ、だけど楽しいじゃん。駄目です。
入院生活がかくも長引いたのも、担当医からの外出許可を逆手に、寄り道を繰り返してしまったからに他ならないからだ。
そのたびに外出制限をかけ直すこっちの身にもなってみてよぉ。

そうですかあ・・・。

家に帰る。これ出来てない。あれお粗末だ。父の指摘はごもっとも。
でももう僕には言い合う気力がない。
そうですかあ・・・。
何時までも学生気分で結構ですな。
とりあえず何かしてよ的な話で一杯になっている。
人に任す話と自分でする話の間の見極めがつきにくい!
遊びながらスマホをいじっていると、日々新たな発見があって、がんばりがいがある。
文字入力の仕方を会得するのに一か月。
お前の人生これからが楽しい。ただじぶんでやらなあかん事はやってくれ。それだけだ。
父は観念したようにつぶやく。
僕の対し方も少しは変わってきたのかな。

こんな悩みは・・・

これからの脚力に自信がなくなってきた。日常生活で筋力の衰えを感じる。

精神力は高い方だけど知力が限界。

こんな悩みが果たして精神科で扱うものか。内で悶々と持っているうちに、二十年。

自分で解決しようと今になって動き出した。

そう人への御託より、自身の前進のために、まずやりたいことから始めよう。

好きな音楽を聴くため、装備を調える。自分の生活に資することの、まず第一がこれであるような気がした。

生活を成り立たせる大切な要素。その充実が今、一番にしなければならないこと。

買い物より何より、自分の手の届く暮らしになくてはならないこと。

それが何か厳選する目が必要だ。

半年病棟の中で過ごして、僕が得たのはこのような視点である。

なんだか大切なものを渡されて、やっと何かが変わった気がする。

スマホに乗り換え

入院生活にやっと慣れてきた頃、携帯を持ち替えた。

スマホ。タップ。スワイプ。メモリ解放。WiFi,もばいるでーた。

なんのこっちゃ。はじめはさっぱりである。

、紛らわしい名をスマホのosに採用したのは、何処のどいつだ。

グーグルのネット空間。散歩しているといろんな事に気がつく。

音声入力の物凄さ。遊びすぎた。

日本語入力ツールの進化に目を見張る。これぞ日本のスマホ。

you tubeで音楽再生。グーグルプレイの使いこなし。

入院中のベッドの上でごちゃごちゃいじりすぎる。

スタッフに深夜注意を受けた。

アプリとは何ぞや?ニュースをただで運んでくれる重宝な代物も。

あんたはそう言うものをいじくり回していても、他に迷惑を掛けないからまだ。

 

こうしてスマホをおもちゃにして遊んでいること自体、世の中とつながろうという欲求の裏返し。あなたは退院したほうがいいよ。

 

スマホを持って三週間、みっちり遊んでいた自分に気づいた。

 

浅はか

中島みゆきの「宙船」
授産のカラオケ大会で熱唱してみた。
ドキッとする。
歌詞に「お前が消えて喜ぶものに お前のオールを任せるな」
この物凄さ
自分で人生のオールを漕げ。人に任せてはいかん。
でもどうしても人に任せなければならん時もあるでしょ。
それでも…
 なんだかこれでは少し前のNHKの番組内のある企画のよう。
自分が消えて喜ぶ者に流されていく危うさ。でもそれさえ肯定的に聞こえてくるから不思議。
ふらふらと荒波漂う船の進路を決めるには相当の忍耐と覚悟が要る。人生の逆境における情景を船を通じて、生々と描いている。
自分でこんな境遇に身を置いておいて、何が逆境か。ある人が僕について語った言葉だ。けれど彼女は最後には この曲について「これも人生なんだよ」とコメントしてくれた。
深いのだか浅いのだか。
中島みゆきには船で人生を描いた歌が多い。それもこれもその一側面であろうと思う。
こんな歌もあったような。二つの船は寄り添う故に…何とやら。
曲解かも知れないが、そう。空船と二艘の船。この二曲を並べて聴いてみると面白い。
そこから見えてくるもの。それが今の僕の支えとなる。
こんな考え、浅はかですか。

「守ってあげたい」の逆理

初めて言葉を交わした日の あの瞳を忘れないで
いい加減だった私のこと 包むように輝いてた
遠い夏 息を殺しトンボを捕った
何時までもこんな気持ちで 夢を形にして
彼女は、夢の形を体現してゆく彼を好きになる。
純粋のなかに夢を追い求める彼を見て、守ってあげたいと思う。
不思議な言い回し。
「彼はそう言う人だから守ってもらいたい」じゃなくて、女性のほうが、
彼に母性を働かせる。
子供が出来たらどうなる。立場の逆転。
人生を戦い抜いて、地位を金を栄誉を得てゆく。それが本来男性。
家族を守り彼女を認め、子供を学ばせ、育て抜く。こういう道徳的価値観が本当に歌になるか。
この逆理こそこのユーミンのヒット曲に秘められたものだと言えるだろう。
君を守ってやるぞと言いながら、何も出来なかった男は、卑怯である。
たくさんの親族を持ちながら、家を守れなかった僕は、この歌の逆理に苦しみに苦しみ抜いた自分の責めを負うかも知れない。

好きほど嫌い

春なのに、卒業写真、卒業。
卒業ソングは多々あれど、mステで取り上げられて、長く命脈を保ったのが、スピードの四人が歌ったgraduation。
伊扶弘将 プロデュースのこの曲。
あの日のように何もなかったように、夢で会えたら・・・。
何気なく過ごしていては、決して分かるはずもなかった、友人達との決別。
恋人達はこうして大人になっていくのだろうか。
この曲を初めて聴いてショッキングだったのは、歌う彼女たちの年齢もさることながら、ある事に対する二度と戻らない永遠の別れを、詞にしたところだった。
これが発表された時、僕は高校最終学年の、忙しいながらも何処か開放感のある空気のなかにいた。
それから二十七年。何度も番組で取り上げられているうち、春を代表する卒業ソングのひとつとなっていった。
人は皆ひとつの決意を持って別れの時を迎える。
きっと忘れない 離れても生きていく今日から 寂しさと勇気をくれたよね
曲は印象的なサビから盛り上がり、幼い自分にサヨナラを告げて終幕。
これほどまでカラオケで歌われヒットした曲である反面、嫌いな人も多い曲もない。
人に好かれる人ほど嫌われる人も多いという。
なんだかそんな事を考えさせられる曲だ。

自尊心

自尊心を持って事に当たれ。細かい点は気にせず、今やるべき事を達成するために、必要なことは何か徹底的に考えなさい。

裏で支えてくれる友を大切にしなさい。

事を決して投げ出したり、自分の支えとなる人を、裏切ってはならない。

去る者は追わずと言えど、人を裏切れば、裏切られます。

人の立場に立ってその結果その人が、どうせざるを得られなかったかも考える。

自分がそれによりどうすればいいか。

相手に与える影響を含めて、状況とその心理的効果を考え、自分が得するにはどうすればいいか、総合的に判断する。これが大切だと思います。

これが下手だと徹底的な陥れに捕まってしまいます。

人を人として対等に話せるには、まず相手を知ることです。人を人としてみない人を人は好きにはなりません。

相手の気持ちを慮ること。相手の自尊心やプライドを傷つけては何にもなりません。プライドの形成には相手の立場による社会的な何かも含まれます。

この点注意して、人と接しないと、つきあいの浅い人とは特に、大きな争いに巻き込まれかねません。

人とつきあう上での、態度の使い分けが、鍵になります。誰に対しても態度が一緒という人は、親しき仲にも何とやら。

人としての何かを忘れてしまっては、何をするのも、他人に礼を失してしまいます。それでは自尊心のかけらもありますまい。

絵を描く

あゆみ舎の自主活動で一度絵を描こうという事にした。
宝が池を歩いていた時、いつも三周ほどした。浮見堂を見つける。
入って父と休息。
浅瀬のボート場でボートを漕いだ後、この浮見堂で小豆バーをかじっていると、疲れても、また頑張ろうと元気が出てくる。
いつもこれをするともたないので、何か月に一度、の楽しみ。
今この浮見堂はどうしているだろう。当時のそれを思い出して描いてみた。
水害で沈没した家屋のようになってしまった。感じだけは出したつもり。
比率や構図というものを取りずらい僕。
素材の様子を見て描くと、かえって大変だったかもしれないけれど、記憶の中のそれは、なんとも拙いながら、いやこんなんと違う、こうだとか、見える角度が少し不自然だとか、いろいろ考えていて、取り出すのに時間がかかった 。
うんうんと唸って、二、三十分。やがて水彩色鉛筆で色をのせる。
空の青…としたかったけれど夕映えの赤。水面の色ももう少し工夫していい。
qさんみたいな絵と言われ、しおれてしまった。
「才能は一回では花開きません。百回はやってください」Yさんに言われて「えー 百回も」  すったもんだの初仕事。結構面白く…ない。

寿司レク2017

くら寿司とかごの屋どっち行くの?
かごの屋は一週間前までに予約。
その際出席者全員の分の注文も先に決めて、店側に伝えて置かなくてはならないので、
今からは難しいですね。
泣く泣くかごの屋はボツ。
くら寿司のちらし入ってるよ。どれにする?
 ある利用者さんが僕に水を向けた。
あっウナギ!  特上鰻丼980円に釘付け。
よし食べる。
並のほうにしといて、うどんつけるか。
yさん心配そう。
目立つようなことは…と言われたけれど、思い切って大奮発。
ボックス席でこそこそやっていたと思っていたのに、周りから丸見え。
こんな状況だったとは。
みんながやらかしてどんどん皿を積むかどきどき。
先発組は気を遣ったのか前ほどその皿の数は増えなかった。
タルト取りましょうか。
皿を取る皆を見るのもついにしびれきる頃。sさんの気遣い。
北海道フェアの目玉プリンタルトを注文して頂く。
当たらんなあ。ほんまスカや!誰かが声を上げた。びっくらポンで皿の精算。先発後発各班が揃うと、楽しみの余韻を車に乗せて、あゆみ舎に戻った。

おかえり

かつて、私にはお迎えをしてくれる人がいました。
帰ってくるとまず、お帰りなさい。そう声を掛けて、一日をねぎらってくれる人がいました。
その母も今は天界へ。おかえりなさい。家の中からそんなやりとりが出来なくなって、今は時々父に向かって、私がお帰りなさいと言っています。
ただいま。おかえり。そう言い合い、ねぎらい合える関係が、いずれ絶えてしまわないか。心配ではあります。
何回もお帰りなさいを繰り返すうちに、僕は家族の一人一人に、勝手なことを押しつけすぎたかも知れなかった。
柴田淳というシンガーソングライターの「おかえりなさい。」この曲を聴いて僕はもだえた。
おびえながら、何時か会えなくなる。そんな男女の間のお帰りなさいを、僕は今まで想像すら出来なかった。当たり前のことを当たり前に出来なくなる怖さ。もうこの家は崩れ去るのだろうか。
当たり前にすがりつきすぎた自らを、僕は悲しく思う。
これが何万回何千万回続いて当然と信じ込んでいたあの日。心から僕は恥ずかしい。
寒々としたただいまを空で繰り返したあげくに、自分を見失うことになろうとは。
この曲の持つような緊迫感。この凄まじさを日常的に自分のものとして感じていれば、事情はもっと違った方向に転がりだしていたのではあるまいのか。
内を守ることの大変さ。外に出てみて、作業してみる間のこの時間を持つことで、かえってそれが見えてきた。

宣言します

寿司が好きで、外出の折など、にぎり寿司をよく食べていた。
工賃が入ると、一か月に一回ほど食べ、そのたび飲むので、足がもつれる。
ビールは止めたほうがいい。
一度移動支援業者に頼んで、家まで車で送ってもらった事がある。
その件で会議で「以後ないように」と注意を受けた。
表立ってではないにしても、店の人が最近とみに心配する。
大丈夫?気をつけて帰ってね。
帰る時の気遣い。少し食べ過ぎて、酒量がコップ二、三杯多くなってしまった。
外は例によりものすごい雨。月に一度の楽しみが台無しになっても。
「あがりで、二、三皿と言わず、十皿ほど食べたらいいのに」かえって店員さん。
母の面影を追っている自分。あれがたしなみとまずビール一本。
外で何かあったら大変なのに。
酒を覚えて三十三年。最近は回りがやけに早い。
決めた。もう酒とつまみは止める。

あの日

すれ違った思いのまま、あの日、僕の話は平行線を辿る。
悲しい訳じゃないけれど、自由やお金じゃ買えないもの。それを君はほしがるみたい。
竹内めぐみさんの歌うこの曲は、自由とそれにつながる何かについての、考察としてみると、示唆に富んでいる。
愛には形がない。そんな事はないとも言う人がいるけど、抱きしめ合えればこんなに温かいのに。
「何もない僕等」これを聴き、僕は「自由である故に、不自由である」という言葉の今日的な意義を考えた。
僕の悲しみは、風になり雨になり、空に舞う。
もう本当のことを言わなくて良い。大人は時にそう言わねば、話が成り立たないこともあるんだよ。
嫌だ。お金は一杯要らない。でも誰かと一緒にいたい。
そんな無茶な。
無茶を言ううちに、僕はあることをついに誰にも言えなくなった。
スーツを着られないのも、恋が出来ないのもそう。なんか本当に気放題なやつ。特に三十代を超えると、友人とも遊んでられない。
自由業みたいになってしまって、僕は悲しんだ。
そんなとき聴いたその歌は、そう言う思いと共に、切ない記憶を蘇らせるのだ。